支出を抑えて生活レベルを落としても、生活の満足度が全く下がらなかったときの話

支出を抑えて生活レベルを落としても、生活の満足度が全く下がらなかったときの話

働き始めてまもなく、私は浪費家でした。

お金を貯めるという発想とは無縁で、「もらったお金は全部使う」という感覚で過ごしていたので、ちょっとでも欲しい物があれば、とりあえず買っていました。

もちろん、初めて所持したクレジットカードで。

ところが、恥ずかしながらクレジットカードの利用額を計算していなかった私は、口座の残額が足りないことを忘れていて、一度支払いを遅延してしまったのです。

「ブラックリスト入り」はなんとしても避けたかった私は、
学生時代に貯蓄しておいた口座からお金を移し、ひとまず事なきを得たのでしたが、
この体験には非常に恐怖を感じました。

その後、「お金を使いすぎてしまったらどうしよう」
との恐れから、私は家計簿をつけるようになりました

そして、過度に支出を抑制するようになったのです。
平たく言えば、「生活レベル」を一気に落としました

状況が状況だけに、選択肢はありませんでしたので、結局、私は支出を減らす計画を、忠実に実行しました。

例えば、

「外食」を減らして、家で料理を作るようになりました。
「タクシー」を減らして、自転車を活用するようになりました。
「コンビニでの買い物」を減らして、スーパーで買うようにしました。
「飲み」を減らして、家で本を読むようにしました。
「ショッピング」を減らして、運動するようにしました。

こうした話を知人にすると、大抵の人は気の毒に思ってくれます。
「つらかったでしょ?」とか、
「大変だよね」とか。

中には、
「絶対自分には無理だわ」
という方もいます。

では本当に、生活レベルを落として私は不幸になったのでしょうか?

とんでもない。
驚くべきことに、生活の満足度が著しく向上したのです。

痩せた上、料理がうまくなりました。
自転車で走る、街の風景が素晴らしいことに気づきました。
旬の美味しい食材が食卓に登るようになりました。
本の「積ん読」が圧倒的に減りました。
体力がついて、自転車のレースに出ることができました。

要するに「お金を使わない」生活は、私にとって素晴らしいものだったのです。

私は不思議でした。

あれ程恐れていた、「お金を使わない生活」だったのですが、いざそれに突入してみると
特に不便を感じないばかりか、実は楽しい。

なおかつ、家計簿は毎月黒字収支で、どんどん残高が積み上がっていきました。
大きな支出は7万円の家賃くらいで、お金を殆ど使わなかったのですから、当然です。

目次へ戻る

生活レベルを落としたのに、なぜ私は不幸にならなかったのか。

「単に心の持ちようでしょ」というのもしっくりきません。
なぜなら、それほど大きなマインドセットの転換をした覚えがないからです。

そう思っていたところ、行動経済学の一つの話に思い当たる節がありました。

行動経済学の始祖である、ダニエル・カーネマンは
損失と利得の感覚は、参照点に比して行われる、しかも損失の方がより強く感じられる、と言いました*1ファスト&スロー

プロスペクト理論の要は、参照点が存在すること、損失は同等の利得より強く感じられることである。現実の市場を数年にわたって観察した結果、これらのコンセプトが正しいことが確かめられた


ところで、「参照点」つまり、比較対象が、「浪費していた生活」であれば、私はかなり不幸になっていてもおかしくないはずです。

でも、実際は、そうでなかった。
比較対象は「浪費していた生活」ではありませんでした

おそらく、比較対象は「手元にお金がない状態」「支払いを遅延してしまうかもしれない恐怖」でした。

それに比べると、家計簿上に積み上がる貯金は、私を著しく幸せにしました。
それこそまさに「余裕」と呼べるものだったと思います。

ですので、「やりだすと、貯蓄にハマる人がいる」のは、とても理解できます。

目次へ戻る

実際、お金を使っても、実はそれほど生活の満足度は増えません。

「生活レベルの向上による利得は、感じづらい」のです。

それよりも、「支払い」「現金がない」というマイナスのストレスのほうが遥かに強力であり、貯蓄による心の余裕がそのマイナスを減らせば、強い幸福を感じることができるのです。


また「お金が使えない」という制約も、むしろ生活の満足を向上させます。
なぜか。
それは、生活が創意工夫を要求するからです。

私の場合も、合点がいくことが多いです。

「外食」を減らして、家で料理を作るようになれば、当然「限られた中でどれだけ満足できるような選択をするか」に注意を払うようになります。

「タクシー」を減らして、自転車を活用するようになれば、街の些細な変化に気づき、移動そのものを楽しむ工夫をするようになります。

「コンビニでの買い物」を減らして、スーパーで買うようにすれば、様々な物品の価格変動に敏感になるとともに、広告の品を狙ったり、時間帯で買うものを変えたりと、「買い物」がゲーム化します。

実際、主婦が「一円でも安いもの」を求めて隣の街まで行く、という話は「全然費用対効果が合わない」と揶揄されがちですが、損得の話をしていたのではなく、ゲームの話をしているのですから、別に不合理ではありません。

「飲み」を減らして家で本を読むようにすれば、読書という習慣が付き、知識が自分の中に蓄積します。

「ショッピング」を減らして、運動するようにすれば、健康を保てるとともに、日常に単純な目標をもたせることもできます。

つまり「能動的」に「創意工夫」を自然に行うようになったのです。

結局の所、「生活レベルを落とすと不幸になるのでは」というのは、単なる推測であって、生活レベルを落とすことそのものは、よほどの貧困状態でない限り、不幸の原因とはなりません。

老後のため、というより、自身の心のため、貯蓄や投資を行う。
そしてとにかく、経済的な余裕を持つことに、集中する。

これが、じつは「豊かな」考え方ではないか、と強く思うのです。

関連記事

人気ランキング